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東京地方裁判所 昭和40年(ワ)3920号 判決 1967年4月25日

原告 室田広四

被告 日立化成工業株式会社

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一原告訴訟代理人は、「被告は原告に対し金六八〇、〇〇〇円およびこれに対する昭和四〇年六月四日から完済まで年六分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決および仮執行の宣言を求め、請求原因を次のとおり述べた。

一  訴外株式会社奥村製作所(以下「訴外会社」という。)は被告に対し乾燥器三台((1) 発注番号二四〇八-〇〇七一八五号、(2) 同二四〇八-〇〇七五二一号、(3) 同二四〇八-〇〇七八六七号)を代金六八〇、〇〇〇円(前掲(1) 金一七〇、〇〇〇円、前掲(2) 金二二五、〇〇〇円、前掲(3) 金二八五、〇〇〇円)で売り渡した。

二(1)  訴外会社は原告に対し昭和三九年一一月二八日右売掛代金債権金六八〇、〇〇〇円(以下「本件代金債権」という。)を訴外会社の原告に対する貸金債務金一、四五〇、〇〇〇円の弁済が不能になることを停止条件として譲渡した。

(2)  しかして、右訴外会社は同年一二月一九日右弁済が不能となつたので、右条件が成就した。

三  訴外会社は訴外弁護士飯田正直(以下「飯田」という。)に対し昭和三九年一二月一九日本件代金債権譲渡の通知をすることを委任してその代理権を授与し、飯田は訴外会社代理人として被告に対し同年同月二一日内容証明郵便にて本件代金債権譲渡の通知をなし、同書面は翌二二日被告に到達した。

四  よつて、原告は被告に対し金六八〇、〇〇〇円とこれに対する訴状送達の翌日である昭和四〇年六月四日から支払ずみまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金との支払を求める。

第二被告訴訟代理人は、主文同旨の判決を求め、答弁として次のとおり述べた。

一  原告の請求原因一の事実は認める。

同二の事実のうち(1) は不知、(2) のうち、昭和三九年一二月一九日訴外会社が貸付金債務の弁済が不能となつたことは認める。

同三の事実は認める、但し、債権譲渡の通知の効力は争う。本件代金債権譲渡の通知は、昭和三九年一二月一九日の数日前原告から本件代金債権譲受契約を含め訴外会社に対する貸金債権回収について委任をうけた原告の代理人飯田が同三九年一二月一九日原告方において訴外会社代表者佐々木清三郎との間で本件代金債権の譲渡契約を締結すると共に、直ちに同所において債権譲渡通知の手続の委任をうけ、譲渡人の代理人として債権譲渡の通知をしたものである。このような通知は、譲受人からの通知行為と同視すべきものであり、また債務者にとつて債権譲渡契約が行われたかどうか極めて疑わしい形態の通知行為であるから、民法四六七条一頂にいう通知には該当しないものである。

二  かりに、飯田の本件代金債権譲渡の通知が、同条にいわゆる債権譲渡の通知と認められるとしても、本件代金債権譲渡の通知は双方代理行為であり無効である。すなわち、飯田は本件代金債権譲渡契約について譲受人である原告の代理人であり、かつ本件代金債権譲渡の通知について譲渡人である訴外会社の代理人である。したがつて、訴外会社の本件代金債権譲渡の通知は民法一〇八条一項に違反し無効である。なお、債権譲渡の通知は債務者との関係においては、債権移転の要件であつて、なんら法律関係の変動を生ぜしめないところの履行行為とは異るものである。

三  かりに右主張が認められないとしても、訴外会社の代理人飯田は弁護士であるが、その本件代金債権譲渡の通知は弁護士法二五条一号、二号に違反し、飯田の職務上行ないえない行為であり無効である。すなわち、飯田は本件代金債権譲渡契約について譲受人である原告の代理人であり、かつ本件代金債権譲渡の通知について譲渡人である訴外会社の代理人である。したがつて、飯田の行為は、相手方の協議を受けて賛助し、またはその依頼を承諾した事件もしくは相手方の協議の程度および方法が信頼関係に基づくと認められるものでその相手方の協議を受けた事件についてなされたものである。よつて、訴外会社の本件代金債権譲渡の通知は無効である。

四  かりに右主張が認められないとしても、被告は次のとおり相殺をもつて抗弁する。

(1)  被告は原告が本件売買代金債権を譲受けた当時、訴外会社に対し同会社振出にかかる(イ)振出人訴外会社、受取人東興計器株式会社、第一裏書人欄裏書人東興計器株式会社被裏書人白地とする金額五八三、九〇〇円、満期昭和四〇年一月三一日、支払地および振出地東京都豊島区、振出日昭和三九年七月三一日(ロ)振出人訴外会社、受取人株式会社富士冷凍設備工業社、第一裏書人欄裏書人株式会社富士冷凍設備工業社被裏書人株式会社日立製作所、第二裏書人欄裏書人株式会社日立製作所被裏書人被告とする金額三九四、五〇〇円、満期同四〇年二月二八日、支払地および振出地東京都豊島区、振出日同三九年八月二八日の各約束手形債権を有していた。

被告は(イ)の手形は同三九年一二月一五日、(ロ)の手形は同年一二月一〇日に取得し、いずれも現にそれらを所持している。

(2)  訴外会社は昭和三九年一二月一九日支払を停止したので、右手形の所持人である被告が振出人である訴外会社に対して有する右約束手形金債権は弁済期が到来した。すなわち、約束手形の振出人が支払を停止した場合には、手形法七七条一項四号、四三条後段により所持人は遡求権を行使しうることとなる。そして、同法四四条五項は遡求権発生の要件を定めているが、これは所持人は満期に拘らず直ちに支払のための呈示をなすこと、すなわち弁済期の到来することを意味するものである。本来約束手形では、手形金の最終支払義務者である者は振出人であり、同法一五条一項によれば裏書人その他の債務者は振出人の債務を担保し、その所持人に対する債務は四七条によりいわゆる合同責任とされ、共同にて請求をうける関係にある。したがつて、その債務の内容は同一というべきであるから、振出人に対しては支払のための呈示、裏書人に対しては遡求という手続上の差異はあるにしても、裏書人の債務(振出人の支払停止により満期前の遡求に応ずる義務)の弁済期が到来する以上振出人の当該手形金債務の弁済期も到来するものである。

(2)(イ)  他方、訴外会社と被告の間の前記乾燥器売買契約においては、代金支払は毎月末日迄に検収を完了した分につき、翌々月一五日に三カ月先を満期とする手形を振出して支払う旨の約定がなされていたところ、右乾燥期の検収はいずれも昭和三九年一一月中に完了したから、その代金債務の弁済期は同四〇年四月一五日であつた。

(ロ)  したがつて、かりに本件代金債権譲渡の当時において、前記約束手形金債権の弁済期が到来していなかつたとしても、被告の訴外会社に対する前記約手金債権の満期は同四〇年一月三一日および同年二月二八日であるから、本件代金債権より先に弁済期の到来する関係にあつたものである。

(3)(イ)  そこで、被告は(2) の(イ)のとおり被告の訴外会社に対する手形金債権の弁済期が本件代金債権の弁済期より先に到来する関係にあつたので、訴外会社に対し昭和三九年一二月二一日書面をもつて右約束手形金債権(以下「本件手形債権」という。)をもつて原告の本件代金債権とその対当額において相殺する旨の意思表示をなし、同書面は翌二二日訴外会社に到達した。

(ロ)  かりに、右の相殺の意思表示による本件代金債権の消滅が認められないとしても、債権譲渡当時譲渡債権の債務者が譲渡人に対して反対債権を有し、かつその債権の弁済期がすでに到来しているか、あるいは譲渡債権の弁済期より先に到来する関係にある場合には、債務者は自己の有する反対債権の弁済期到来後何時でも相殺をもつて債権譲受人に対抗しうるものであるから、被告は原告に対し本訴昭和四一年一一月七日の第一一回口頭弁論期日において本件手形金債権をもつて本件代金債権とその対当額につき相殺する旨の意思表示をした。

(ハ)  なお、債権譲渡と相殺の関係について付言するに、債務者(本件の場合被告をいう)の債権譲渡人(訴外会社)に対する債権の弁済期が到来しているか、あるいは、右債権の弁済期が債権譲渡人の債務者に対する債権の弁済期と同時又は先に到来する関係にある場合には、債務者は相殺適状に至つたとき相殺しうる期待的利益を有するが、その期待的利益は、債権譲渡人の債務者に対する右債権を第三者に譲渡あるいは転付され、または第三者によつて右債権が差押えられる等債務者のなんら関知しないことによつて失われてはならないものであるから、被告は原告に対し相殺をもつて対抗しうるものである。

以上により、原告の本訴請求は失当である。

第三原告訴訟代理人は被告の抗弁事実に対して次のとおり述べた。

一  被告主張の本件約束手形債権の存在および被告が昭和三九年一二月二一日内容証明郵便により訴外会社に対し相殺の意思表示をしたことは不知、飯田が昭和三九年一二月一九日原告方において訴外会社代表者佐々木清三郎との間に本件代金債権の譲渡契約の委任をうけたこと、原告が原告主張の約束手形を所持していること、訴外会社が支払を停止した事実および本件代金債権の弁済期が昭和四〇年四月一五日である事実は否認する。本件代金の支払は納品と同時に支払う約定である。飯田は原告の委任に基いて債権譲渡の通知をなしたものでなく訴外会社代表取締役佐々木清三郎から直接に右通知の委任をうけたものである。

二  かりに飯田のした通知が民法一〇八条一項に当るとしても、本件債権譲渡は債務弁済のためのものであるから、同法条但書により無効ではない。

三  かりに、訴外会社が昭和三九年一二月一九日支払を停止したとしても、被告の相殺する旨の意思表示は無効である。すなわち、被告は相殺の意思表示をなすについて本件約束手形の呈示をしていない。

また、手形法七七条一項四号は「支払拒絶に因る遡求」として四三条の準用の範囲を限定しているから支払の停止の場合には適用されない。かりに適用があるとしても四四条五号により遡求の形式的要件である手形の呈示と支払拒絶証書の作成をしていない。

かりに遡求権があるとしても、被告のした相殺の意思表示は原告が訴外会社から本件代金債権の譲渡をうけた後にしたものであるから、被告は右相殺をもつて原告に対抗することはできない。

第四証拠<省略>

理由

一  訴外会社と被告との間に原告主張の売買契約が成立した事実については当事者間に争いがない。

二  そこで、訴外会社が原告に対し本件代金債権を譲渡した事実について判断するに、証人佐々木清三郎の証言により真正に成立したものと認められる甲第一号証、証人佐々木清三郎の証言、原告本人尋問の結果によれば、訴外会社が原告に対し昭和三九年一一月二八日訴外会社の原告に対する貸金債権金一、四五〇、〇〇〇円の弁済が不能になることを停止条件として本件代金債権譲渡の契約を締結した事実が認められ、右認定に反する証拠はない。しかして、訴外会社が昭和三九年一二月一九日右貸金債権の弁済不能となつたことは当事者間に争がない。右事実によれば、原告は右契約による停止条件の成就によつて本件代金債権を取得したこととなる。

三  次に、飯田が昭和三九年一二月一九日訴外会社代表者佐々木清三郎から債権譲渡の通知をすることの委任をうけたことおよび飯田が訴外会社の代理人として被告に対し昭和三九年一二月二一日書面をもつて本件代金債権の譲渡の通知をした事実および翌二二日同書面が被告に到達した事実は当事者間に争がない。証人佐々木清三郎の証言により真正に成立したことの認められる甲第三号証、証人佐々木清三郎の証言により真正に成立したと認められる甲第四号証の一、成立に争いのない甲第四号証の二、証人佐々木清三郎の証言、原告本人尋問の結果によれば、本件代金債権の譲渡契約は原告本人と訴外会社代表取締役佐々木清三郎との間で締結された事実、右契約にさいしては原告本人が飯田に相談し、飯田に対し訴外会社の代理人として本件代金債権譲渡の通知をすることを依頼したところ、飯田が原告本人の依頼を拒絶したので、訴外会社代表取締役佐々木清三郎は右経緯を承知した上で同人が直接飯田に対し本件代金債権譲渡の通知をすることを委任し、代理権を授与した事実が認められ、右認定に反する証拠はない。右事実によれば、飯田のなした本件代金債権譲渡の通知は本件代金債権の譲渡人である訴外会社の代理人としてなした瑕疵のない代理行為による通知ということができるから訴外会社がした本件代金債権譲護の通知は民法四六七条一項にいう通知に当るものである。

四  ところで、民法一〇八条は、本人の利益が不当に侵害されることを防止するため代理権限を制限した規定であつて、このような弊害を生ずるおそれがない場合には同条本文の適用を制限すべきであつて、同条但書が債務の履行を除外したのもかかる趣旨に解すべきである。しかるところ、債権譲渡の通知は債権譲渡契約の履行に属する行為であつて、同条但書に該ることは明らかであり、しかも、前示認定のとおり、訴外会社代表取締役佐々木清三郎は原告本人と飯田との関係を予め十分承知した上で代理権を授与したものである。したがつて、以上いずれの点からみても、前記飯田のした債権譲渡通知は同条本文により無効となるものではない。

五  次に、飯田の本件代金債権譲渡の通知は弁護士法第二五条により飯田の職務を行ない得ない事件であるから無効である旨の主張について判断するに、前に示した四の事実によれば、飯田の職務を行ない得ない事件には当らないものである。即ち弁護士法第二五条の趣旨は依頼者の利益を保護すると同時に弁護士の職務執行の公正を確保し、その信用失墜を防止することにある。したがつて、いやしくも弁護士が特定の具体的事件に対する処理方針について法律上の判断を求められ、その依頼当事者のために具体的意見を述べた以上、依頼者本人がその判断を受けいれたかどうか、また依頼者が弁護士に対しいかなる程度の信頼の念を抱いたかどうかにかかわりなく、もはやその事件について依頼者の反対当事者のため職務を行うことはできないと解すべきである。しかしながら、飯田の本件代金債権譲渡の通知は代理人である飯田によつて新らたに利害関係が創られるものではなく、すでに成立している利害関係の決済に止まり、しかも訴外会社代表取締役佐々木清三郎は原告本人と飯田の関係を予め十分承知した上で代理権を授与したものであり、かつこれに対し何らの異議を述べた形跡もない。したがつて、同法二五条一号、二号のいずれにも該当しないものと解すべきである。

六  次に、被告の相殺の抗弁について判断する。

(1)  証人佐々木清三郎の証言および弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる乙第一号証、第二号証、第八、第九号証の各一、二証人佐々木清三郎、同米原耕介および同馬場清尚の各証言を総合すれば、訴外会社代表取締役佐々木清三郎が本件約束手形を振出した事実および被告はその主張の日にその主張の裏書の連続ある本件約束手形二通を取得した事実および被告が現に本件約束手形の所持人である事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

(2)  訴外会社が被告主張の日に支払を停止した事実の有無について判断するに、証人佐々木清三郎の証言によつて成立を認められる乙第三号証、証人佐々木清三郎、同馬場清尚の証言を総合すれば、訴外会社代表取締役佐々木清三郎は訴外会社債権者に対し昭和三九年一二月一九日同年同月二一日満期の約束手形の支払が不能である旨通知した事実が認められ、右認定に反する証拠はない。右事実によれば、被告は遡求権を行使する実質的条件を具備したこととなる。けだし、手形法第四三条第二号の支払停止は債務者が債権者に対し支払手段の継続的欠陥により弁済期にある金銭債務を一般的に支払うことができない旨を明示または黙示に表示する債務者の主観的行為であつて、必らずしも客観的に支払が不能になることを要しないものと解すべきであるからである。

(3)  さて、手形法七七条一項四号は、約束手形については支払拒絶による遡求(四三条前段)のみを認め、満期前に振出人の支払停止により振出人の信用が失墜して満期における支払について危惧を抱かせるようになつた場合(四三条後段)については何ら規定を設けていない。しかし為替手形との均衡上、約束手形についても満期前の遡求を認めるのが相当である。右のごとく、遡求が認められるとすれば、約束手形の振出人は手形債務の絶対的義務者として遡求義務者とともに合同してその責を負うこととなる(手形法七七条一項四号、四七条一項)。しかしながら、振出人の義務は手形債務者としての最終的絶対的義務であつて遡求義務ではないから、振出人の責任を追及する場合には、遡求の実質的要件が備わればたり、形式的要件である手形の呈示と拒絶証書の作成は不要であると解すべきである。

(4)  次に、本件代金債権の弁済期について判断するに、本件代金の支払方法が納品と同時に支払う約であることは原告の自認するところであり、証人佐々木清三郎、同米原耕介の証言により真正に成立したと認められる乙第四号証ないし第六号証の各一、二および証人米原耕介の証言によると、原告主張の各乾燥器は昭和三九年一一月五日および同月一〇日に完納された事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。してみると、本件代金債権の弁済期は遅くとも昭和三九年一一月一〇日に到来したものである。

(5)  さて、昭和三九年一二月二二日の被告の相殺の意思表示について判断するに、郵便官署作成部分については当事者間に争いがなく、その余の部分については証人馬場清尚の証言により真正に成立したと認められる乙第七号証の一、成立に争いのない乙第七号証の二によれば、被告の取締役経理部長石垣武三郎は訴外会社に対し昭和三九年一二月二一日書面をもつて本件代金債権と本件約束手形債権とをその対当額において相殺する旨の意思表示をなし、右意思表示は翌二二日訴外会社に到達した事実が認められ、右認定に反する証拠はない。ところで、手形法三八条は手形の支払を求めるときは手形の呈示を要するものと規定しているが、これは、手形債務者が果して真実の手形債権者であるかどうかを明らかにすると共に、すでに支払をなした手形がさらに善意の取得者の手に帰した場合手形債務者が重ねて支払をしなければならない危険を避ける趣旨によるものであることは明らかである。このことは、手形債権者が手形債務者に対して負担する債務と手形債権とを相殺しようとする場合にもなんら異るところはなく、同法同条の準用により、手形債務者の承諾のない限り、手形の呈示を要するものと解すべきである。即ち手形債権による相殺の場合も手形債務の消滅する点で支払の場合と同一であり、単なる意思表示だけで相殺の効力が生ずるものとすると手形債務者は相手方がはたして手形権利者であるかどうか知ることができず、また、すでに相殺に供された手形が善意者の手にはいり二重払を強いられる危険がある。さらに、被相殺者である手形債務者が遡求義務者である場合には再遡求権を行使するために手形の受戻をすることが必要だからである。従つて、この趣旨を手形債権による相殺の場合にも貫くためには、相殺が単独行為であることとのかねあいからして、手形の交付を相殺の効力発生要件と解すべきこととなる。しかるに、被告が右相殺にさいし本件手形の交付をしたことはこれを認めるべき証拠がない。してみると、被告の右相殺の意思表示によつては本件代金債権は消滅しえないものである。

(6)  次に、本訴における相殺の意思表示について判断するに被告訴訟代理人が本訴第一一回口頭弁論期日において相殺の意思表示をした事実は、当裁判所に顕著な事実である。かかる場合における手形の呈示、交付の要否については、手形債権による訴訟上の相殺の場合手形の呈示、交付を要するとすると、予備的に相殺の抗弁を提出したところが、審理の結果受働債権の不存在が確定され相殺が不要だつた場合、任意に手形の返還を受けえないときは手形債権者は不測の損害を蒙ることとなる。これに対し、手形の呈示、交付を要しないとしても、判決の確定前には相殺の効力は確定的に生じないため、手形債務者は一部支払の記載を求めることも遡求をすることもできないので利益を害されるおそれはなく、また、判決書により相殺による債務消滅の証明が容易で二重払の危険も防止できる上、手形債権者であるかどうかは審理の対象そのものであつて、裁判において自ら明らかになる。したがつて、訴訟上の相殺の場合には手形の呈示は要しないと解すべきである。

(7)  次に、原告は、被告の相殺の意思表示は原告が訴外会社から本件代金債権の譲渡をうけた後になされたものであるから被告は右相殺をもつて原告に対抗しえない旨の法律上の主張をするが、前記債権譲渡の通知のあつた当時、本件代金債権(受働債権)およびこれに対する被告の反対債権(自働債権)である本件約束手形金債権の両方共弁済期が到来していたことは前示認定のとおりであるから、両債権はその当時相殺適状にあつたものである。このような場合、債務者(被告)は自己の債権をもつて相殺をなしうる期待利益を有するものであつて、この期待利益は債務者の関係しない事由(たとえば譲渡または転付)によつて害されることのないように保護される必要がある。したがつて、被告は右の場合相殺をもつて債権譲受人(原告)に対抗しうるものと解すべきである。(最高裁昭和三二年七月一九日判決民集一一巻七号一二九七頁、同大法廷同三九年一二月二三日判決民集一八巻一〇号二二一八頁参照)

してみると、被告は前記相殺の意思表示をもつて原告に対抗しうるものであるから、本件代金債権は右相殺によつて消滅したものというべきである。

七  よつて原告の請求は理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 西川豊長)

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